レビュー一覧
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室岡陽子さん(58歳/アルバイト)「ゲゲゲの女房」 11月9日 一ツ橋ホール・試写会にて |
まるで道端に咲いた雑草の白い花のようなたたずまいの夫婦像だ。貧相なクドカンが、さっぱり売れない妖怪漫画をひたすら描き続ける若き日の水木しげる役を飄々と演じている。 貧しさに鍛えられ、だんだん根性の座っていく妻・布枝をふんわりと演じるのは、吹石一恵。お見合いしてからわずか5日で結婚。ほとんど会ったばかりに近いふたりが、いきなり夫婦になり、貧乏神が団体で棲んでいるようなひどいボロ家で新婚生活をスタートさせる。 確かに想像を絶する貧しさなのだが、もうここまでくると笑っちゃうしかないっていうか、むしろあっけらかんとしているのが面白い。最初は驚き、途方に暮れる布枝だが、女はやはり強し。そして、地道にコツコツ漫画を描き続ける水木の後ろ姿をみているうちに『こんなに一生懸命やっている人が、世の中に認められない訳がない。そんなの間違っている』と思うようになる。自分の選んだ道を一筋に進もうとする水木の決意表明と覚悟が、あの背中にはっきりと表れていたのだ。 好きな道で食べていくことのしんどさが、リアルに描かれている。口当たりのよい朝のドラマより、これはかなり実話に近いのではないだろうか。 引き出しにいれられた沢山の質札、空っぽの米櫃、すり切れ日に焼けた畳、50円で買ってきた腐りかけの真っ黒なバナナ、カリカリとねじを巻く柱時計、赤い郵便ポスト、窓の外を通り過ぎる猫のシルエット等、遠い記憶の向こう側にあるような渋い色調の画面にぼんやりとした昭和の幻が浮かびあがる。 家の2階には不気味な間借人がいて、姉さんかぶりをした水木の母が突然現れたりもする。近くの川やビルの軒下にもこの世の者ではない異形の者たちが住んでいる。こうした生きた妖怪たちと水木のペンから生み出される原画が、アニメーションで動き出し、物語とリンクする。偏屈な貸本屋のオヤジ役の鈴木慶一が、べらんめえ口調の妖怪みたいでいい味を出していた。 電気を止められ、蝋燭の灯りの下で一心に漫画を描いている水木と布枝。時計の音だけがコチコチと響くだけの静かな時間。その中で大切な何かが育っていく。幸せって何だっけ?ちょっと胸が痛い。生活の根本には、その育った何かが大切であり、必要なんだな。きっと……。 |
藤井さん(女性/建築士) 「十三人の刺客」 9月29日 TOHOシネマズ川崎にて |
素晴らしきイケメン?集団十三人が、国の安定を守るため徳川将軍の弟を暗殺に行くというもので、相手の出方を読み策略を練って、決戦に挑み果てていくという、悲劇的な話ですがとても感動的でスクリーンから眼が離せませんでした。俳優さんたちが魅力的なのもありますが、ストーリーや構成がとても解りやすく現代人でも共感出来るようになっていて、2度も観に行ってしまいました。 役所さん、伊原さん、松方さんは刀で戦った経験のある役だったので、殺陣は凄く、他9人は、戦いながら人切りに慣れて行き、段々と上手くなる感じが伝わってきました。石垣くんは、「あずみ」(03)で慣れていたのか、あっという間に2刀流でしたが(笑)。 でも、一番は、稲垣さん!素晴らしいです。今回の映画は、もちろん刺客側のヒーローと極悪ゴロちゃんの戦いですが、稲垣さんが見どころだと思います。あの稲垣さんが、優しく微笑みながら人殺しするとは……。SMAPの中で、どんな役でもこなせるのは稲垣さんだろうとは思っていたけどこれほど役の幅が広いとは驚きでした。 稲垣さん演じる将軍の弟である斉韶(なりつぐ)は、子供の頃から全てお手洗いまで周りの者がやってくれて、何も文句を言う人も居ない。相手にしてくれる人も居ない。すごくかわいそうな人間なのだろうと思います。だから、面白くない人生だと解っていて他人にも残酷に、そして自分にも残酷になっていったんだろうと思えるような人物。刺客側の人物像は、国の為に自分の命を賭して戦うというまっとうな理由で、正義の味方系なのですが、将軍弟側は極悪非道な暴君なのですが、どこか寂しげなかわいそうな人物であり、その周りにいる者も幸せそうではないというような複雑な状況がこちらに伝わるように描かれていて素晴らしいと思いました。 時代劇が花盛りですが、その中でも、とても好きな作品です。 |
男性・29歳/会社員 「マザー・ウォーター」 11月13日 新宿ピカデリーにて |
人はよく『肩の力を抜く』などという言葉を使う。でも、本当に肩の力を抜ける人はそう多くはないだろう。多分それは、力を抜くためには『力を抜くための力』が必要だからだ。言わば、本当に力のある人にしか、力は抜けない。この作品で描こうとしているもの、それはきっとその『力を抜くための力』のようなものだ。 こういう、目に見えないものを映像化するのは本当に難しいことだろう。そして、出来上がった作品から観客がその意図をくみ取り、完全に理解するのはもっと難しい。 そこで監督は作品の中でふたつの工夫を見せてくれている。まず一つ目は、作品のほとんどを、長いノーカットのシーンで構成しているという点だ。役者の発する独特な『間』や『沈黙』も含め、ひとつのシーンをワンカットで撮影し、その連続で作品は進んでいく。そして二つ目は、複数の人物が映る場面では、個々の役者の表情にカメラが決して近づいていかないという点だ。この作品から感るのは、カメラのポジショニングのユニークさだった。例えば、もたいまさこ演じるおばさんが風呂屋で子どもを寝かしつけるシーンでは、彼女の表情は鏡越しにだけ見えるようになっている。また、豆腐屋の前に作品中最多の5人が集うシーンでも、決してそれぞれの表情には歩み寄らず、全員が写り込むアングルで固定のカメラが1台だけじっと構えている。 それらはきっと、映画なのに『舞台』を見ているような感覚を観客に与えたいと採り入れた演出だろうと思う。それが成功しているかどうか、少なくとも私には分からないが、観客がこの作品の登場人物を、より客観的に見られるようにとの意図での演出であることは確かなようだ。 総じて、思っていたよりも難易度が高く、思っていたよりもずっと哲学的なメッセージが描かれていた。監督はそのインタビューで『実力派の役者陣が、わたしがうまく表現できないものをよくくみ取ってくれた』と語っている。確かにこれが初監督作品で大変な現場だったことだろう。しかし、もっともっと力をつけ、自分の頭の中のイメージを120パーセント役者に伝える術を身につけて、もう一度素敵な作品を世に送り出してほしい。誰もが前進しようとしている登場人物らの姿は、今の日本人に必要な姿勢のひとつであると私は感じた。本当に『肩の力を抜いて』生きるために、まずはしっかりと『力を抜くための力』をつけたいと思う。 |