第43回日本アカデミー賞特別賞の受賞者が、選考委員により以下の各氏に決定致しました。正賞15部門および新人俳優賞は、来年1月15日(水)に行われる記者会見で発表し、いずれも3月6日(金)グランドプリンスホテル新高輪にて行われる授賞式で贈賞を行ないます。
(敬称略・50音順/会長特別賞のみ没日順)
映画製作の現場を支える種々の職能に従事する人たちの栄誉を讃えるもの。
69年東洋現像所(現IMAGICA Lab.)に入社し43年間一貫してオプチカル部門を担当する。94年「119」で初めて映画に携わる。デジタル化が急速に進む中、フイルム時代に鍛えた視覚感性によって仕上げ作業を支え、作品に光学的な繊細さを付加し、多くの監督やスタッフから絶大な信頼を寄せられた。代表作に「Shall we ダンス?」(96)、「陰陽師」(01)、「ALWAYS 三丁目の夕日」(05)、「おくりびと」(08)、「ディア・ドクター」(09)などがある。フイルムからデジタルへの架け橋の役割を果たし、後進への指針を示した。
59年東映動画に入社。「太陽の王子 ホルスの大冒険」(68)の原画を担当。「パンダコパンダ」(72)、「じゃりン子チエ」(81)など宮崎駿、高畑勲の作品で作画監督や登場キャラクターのデザインを務めた。高畑勲の発案で“キャラクターデザイン”と初めてクレジットされる。以来今日まで、生み出した数々のキャラクターは多くの人から愛され続けている。19年NHK連続テレビ小説『なつぞら』では時代考証として参加。アニメの黎明期を支え、今なお後進のために活動している。
64年に大映に入社。制作部に配属され製作担当・ロケーションマネージャーとして、黒澤明、市川崑、篠田正浩、原田眞人、小泉堯史といった名立たる監督の求めに応じて、最適の撮影現場を提供し続けてきた。関西地区、特に京都を熟知し、長く蓄積してきた信頼関係に基づいて許可取得困難建造物でも撮影を可能にさせるその手腕は、映画スタッフと地元当事者双方から厚い信頼を寄せられている証でもある。最新作の「峠 最後のサムライ」でもその実力は遺憾なく発揮されている。
今村昌平の「復讐するは我にあり」(79)に小道具応援として参加。87年「あいつに恋して」で装飾を担当。台本からイメージを膨らませ画面の隅々まで小道具を配置し、遊び心と型にはまらない発想に、堤幸彦、三池崇史、吉田大八、園子温など信頼を寄せる監督は多い。代表作に「BU・SU」(87)、「櫻の園」(90)、「うなぎ」(97)、「トリックー劇場版―」シリーズ(02~14)、「桐島、部活やめるってよ」(12)などがある。00年に入り自身の会社『グループ飾り屋』を立ち上げ、後進育成にも力を注いでいる。
永年に渡り多大なる貢献と顕著な実績をしるした映画人に対し与えられるもの。
※歴代の日本アカデミー賞に於いて会長功労賞は「永年に渡り多大なる貢献と顕著な実績をしるし今もなお活躍されている方」に贈られて来ましたが、第40回から上記の規定で贈賞することとしました。
58年東映に入社し、東映京都において内田吐夢の助監督を経て、比佐芳武に師事。60年「白馬童子 南蛮寺の決斗」で脚本家デビュー。「柳生武芸帳」(61)などの時代劇で活躍。61年同社を退社後も時代劇に限らず、任侠映画、実録シリーズものなど、主に東映を中心に数多く執筆し評価を得る。「まむしの兄弟」シリーズ(71~75)、「日本の首領」シリーズ(77~78)、「仁義なき戦い 完結篇」(74)などでダイナミックな男の世界を描く一方、宮尾登美子原作の女性三部作「鬼龍院花子の生涯」(82)「陽暉楼」(83)「藏」(95)や、「極道の妻たち」シリーズ(86~05)などでバイタリティー溢れる女性ヒロインを創出した。豪快にして繊細な筆致で熱量の高い人間ドラマを描き続け、時代を映す、映画史に残るヒット作を連発した。「鬼龍院花子の生涯」での「なめたらいかんぜよ」という名セリフは氏の創作で、一世を風靡する流行語となった。
【日本アカデミー賞受賞歴】
第7回「陽暉楼」 最優秀脚本賞受賞。
第1回「西陣心中」「日本の首領 野望篇」 「やくざ戦争 日本の首領」「北陸代理戦争」で脚本賞ノミネート(第1回~3回までノミネート方式)、第6回「鬼龍院花子の生涯」「青春の門・自立篇」 、第9回「櫂」「春の鐘」、第19回「藏」で優秀脚本賞を受賞。
高校卒業後、53年に東宝演技研究所に入所し、第6期ニューフェイスとして俳優のキャリアをスタートさせる。「かくて自由の鐘は鳴る 福澤諭吉傳」(54)でデビュー。同年特撮映画シリーズの金字塔となる第1作目の「ゴジラ」の主演に抜擢される。その長身と美形を活かし、立て続けに映画に出演し一躍若手トップスターとなる。香港との合作映画「香港の夜」(61)に出演すると、その人気はアジア全域にまで広がった。その後、テレビドラマや舞台にも活躍の場を広げ、中でも『風と共に去りぬ』『マイ・フェア・レディ』などの大作に出演し、ミュージカル俳優として草分け的な存在となった。19年は「ダンスウィズミー」で55年ぶりにスクリーンで歌声とダンスを披露、作品にエンターテイメントのエッセンスを注いだ。実体験した戦後の旧満州からの引き揚げ譚を元に、自身の戦争体験を伝える平和活動やイベントに積極的に参加するなど、俳優業に留まらない幅広い活躍を続けている。
※第2回日本アカデミー賞授賞式司会
短大を卒業し就職するが、知人の推薦で引き受けた雑誌のモデル姿が丸山誠治の目に留まり、54年に池部良主演映画「君死に給うことなかれ」のヒロインとしてデビュー。一本だけの約束だったが、池部の強い推薦で女優の道を進む。清楚で知的な美貌はすぐさま高い人気を得て、東宝の清純派スターとして池部良、宝田明、鶴田浩二などの相手役を務める。その後、小津安二郎、黒澤明、中村登、成瀬巳喜男、小林正樹、市川崑などの名匠の求めに応えて数々の名作の中で多様な女性を演じ、女優としての円熟味を増して行った。特に主演した「紀ノ川」(66)ではその年の映画賞を独占、代表作となった。70年以降、テレビ、舞台、司会業など活躍の場を広げる一方、日本大正村の第2代村長や東京福祉大学の教授など女優業以外でも活躍の場を広げ、才媛振りを発揮している。
59年東映に入社、京都撮影所に配属され、マキノ雅弘、田坂具隆、今井正、沢島忠らの助監督としてキャリアをスタート。64年「くノ一忍法」で監督デビュー。66年には東映京都12年ぶりの現代劇「893愚連隊」を発表。ハンディカメラを駆使しオールロケのゲリラ撮影を敢行し、話題と評価を得た。高田宏治が脚本を担当した「まむしの兄弟」シリーズ(71~75)での既成任侠映画と一線を画した作品をはじめオリジナリティ溢れる作品を発表。時代劇、実録アクション、文芸大作など東映京都のエースとして多種多様な作品群を支えた。近年は東映京都の代名詞でもあるチャンバラの美学を次世代に伝える為に、後進の指導にあたっており、長編映画の「多十郎殉愛記」を19年は20年ぶりに発表。ラスト30分は映画史に残る大立ち回りとなった。
51年、大映の第5期ニューフェイスとして映画界入りし、翌年、「死の街を脱れて」でデビュー。「秘密」「明日は日曜日」など1年目にして9本の映画に出演。瑞々しさと親しみやすさを兼ね備えた、若く美しい容姿で人気を博す。53年溝口健二監督の「祇園囃子」の熱演が評価され、俳優としてもその才能を開花させた。その後も小津安二郎「浮草」(59)、増村保造「妻は告白する」(61)、「女は二度生まれる」(61)、川島雄三「しとやかな獣」(62)などで陰影あふれる演技と、妖艶でコケティッシュな美貌で観客を魅了した。大映黄金期を支えたスター女優としてその出演作は260本に及ぶ。70年以降はテレビ、舞台での活躍が目立つが、スクリーンで見せた甘美な姿は今もなお多くのファンを惹き付け、国際映画祭で特集上映が組まれるなど人気を集めている。
永年に渡り多大なる貢献と顕著な実績をしるした故人に対し与えられるもの。(2019年没日順)
高校卒業後、俳優座養成所に6期生として入所。57年「雪国」で映画デビュー。脇役ながらその存在感は早くから豊田四郎、川島雄三、松山善三ら名監督の信頼を得た。同年『りこうなお嫁さん』で舞台デビューし立て続けに舞台に出演、その活躍はめざましく新劇女優として高い評価を受ける。71年に俳優座退所後も映画、舞台、テレビと幅広いフィールドで精力的に活躍。個性溢れる演技に加え、聴く人を惹きつける魅力的な声の響きからアニメーション作品やナレーションの出演も相次いだ。エポックメーキングな作品となった『まんが日本昔ばなし』(75~94/TBS)、『家政婦は見た!』シリーズ(83~08/テレビ朝日)はお茶の間の幅広い世代の記憶に残る作品となった。映画では「黒い雨」(89)、「人間の砂漠」(90)、「うなぎ」(97)、「あん」(15)、「しゃぼん玉」(17)、声の出演に「あらしのよるに」(05)、「君の名は。」(16)がある。
【日本アカデミー賞受賞歴】
第13回「黒い雨」で最優秀助演女優賞、第21回「うなぎ」で優秀助演女優賞受賞。
57年東映に入社。助監督を経て66年「非行少女ヨーコ」で監督デビュー。74年フリーになるまで任侠映画全盛期の東映の作品群を支えた。監督2作目の「地獄の掟に明日はない」(66)での高倉健との出会いは運命的と呼べるもので、「冬の華」(78)、「駅 STATION」(81)、「夜叉」(85)、「あ・うん」(89)、そして高倉健の遺作となった「あなたへ」(12)まで半世紀近く20本もの作品を共にし、日本映画史に残る寡黙で心優しい男性像を生み出した。日本アカデミー賞では第23回に「鉄道員(ぽっぽや)」で作品、監督、脚本、主演男優、主演女優など8賞の最優秀賞を受賞。人の心と生き様を巧みに描き、生涯現役として49本ものジャンルを越えた作品を残した。その他の代表作に「藏」(95)、「赤い月」(04)、「追憶」(17)など。
【日本アカデミー賞受賞歴】
第23回「鉄道員(ぽっぽや)」で最優秀監督賞、最優秀脚本賞(岩間芳樹と)受賞。
第5回「駅 STATION」「仕掛人梅安」、第19回「藏」、第25回「ホタル」、第36回「あなたへ」で優秀監督賞受賞。第25回「ホタル」(竹山洋と)優秀脚本賞受賞。
51年、新東宝ニューフェイス1期生として芸能界入りし、翌年「恋の応援団長」でデビュー。続けて「チョイト姐さん思い出柳」で初主演を飾る。東宝カラーにマッチした都会的容姿と明朗な演技で早くから注目を浴び、デビューしてからの10年間に100本もの映画に出演。中でも青春コメディ「坊ちゃん」シリーズ(56~59)、「嵐を呼ぶ楽団」(60)、「君も出世ができる」(64)などで人気を集める。59年に菊田一夫の勧めで演劇界にも進出し、日本初のブロードウェイミュージカル『マイ・フェア・レディ』で定評のあった歌声を披露した。「サラリーマン弥次喜多道中」(61)や「キングコング対ゴジラ」(62)などコメディや特撮映画にも主演作が多い。後年はテレビ番組の司会や『ゴールデン洋画劇場』(73~98/フジテレビ)の映画解説を務め、持ち前の明るさと親しみやすい語り口でお茶の間の人気を得、ホスト役を務める番組はいずれも長期にわたる人気番組となった。
※第14回~第18回日本アカデミー賞授賞式司会
59年、多摩美術大学卒業後、広告デザイン会社に入社。イラストレーターの先駆者として活躍する。71年からキネマ旬報の連載『シネ・ブラボー』のイラストを手掛け、73年からは同誌でエッセー連載『お楽しみはこれからだ』を開始、幅広い映画ファンを魅了して第1回キネマ旬報読者賞を受賞、96年までの長期連載の始まりとなった。80年代に至り劇映画の監督に進出し「麻雀放浪記」(84)では作品の面白さと完成度の高さで映画人とファンを驚嘆させ、数々の映画賞を獲得した。以来、「快盗ルビイ」(88)、「怖がる人々」(94)、「真夜中まで」(01)などを監督した。この間も報知映画賞のブロンズ像、キネマ旬報表紙、数々の映画ポスターなど映画にまつわる作品を送り出し、その活動は2010年代まで衰えることなく続けられた。氏の描いた“スチールを越えたイラスト”は、名場面と名セリフで映画の歴史と映画への深い愛情を次世代に伝え、三谷幸喜を始め多くの後進の道標となった。
【日本アカデミー賞受賞歴】
第8回「麻雀放浪記」で優秀監督賞、優秀脚本賞(澤井信一郎と)受賞。
2018、2019年に逝去された特別賞受賞者の皆様のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
第40回授賞式より、会長功労賞を「永年にわたり多大なる貢献と顕著な実績をしるした映画人に対し与えられるもの」として表彰を始めました。このことにより、会長功労賞受賞者には同じ主旨で「逝去された映画人」に贈る会長特別賞を贈賞することは致しません。