香川京子【俳優】
【映画人生を振り返ってのコメント】
幼い頃から人見知りだった私が、女優の道を選び、しかも永い間続けることが出来たのは、本当に沢山の優れた方たちに出逢い、育てていただいたお陰です。今回、この様な大きな賞をいただき、大変光栄に存じますと同時に、お世話になった方々に心より感謝申し上げます。最近は若い頃に出演した作品が上映される折に、当時の現場のこと等をお話する機会が多くなりました。これが少しでもご恩返しになれば、と願っております。
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【解説】
黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男ら日本映画の黄金時代を支えた名監督たちの作品に次々と起用され、見事な演技を見せていずれも高く評価された香川氏は、49年東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」に合格し、新東宝に入社。50年「窓から飛び出せ」でデビュー。大手映画会社の五社協定※ができる前の53年にフリーになったおかげで、各映画会社の巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれる。今井正監督「ひめゆりの塔」(53)への出演が女優としての転機になったと自身は語り、その清潔で素直な持ち味が愛された。以後「東京物語」(53)「近松物語」(54)「猫と庄造と二人のをんな」(56)「 女殺し油地獄」(57)「杏っ子」(58)「早乙女家の娘たち」(62)「華麗なる一族」(74)「男はつらいよ 寅次郎春の夢」(79)「深い河」(95)など数々の名作に出演。近作「天使のいる図書館」(17)まで出演作は210本を超える。ことに黒澤作品では「どん底」(57)「悪い奴ほどよく眠る」(60)「天国と地獄」(63)「赤ひげ」(65)「まあだだよ」(93)などに出演し、三船敏郎との共演は女優としては最多の9作品を誇る。98年紫綬褒章、04年旭日小綬章を受章。11年には映画遺産の保存活動に貢献した人物を表彰するFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)を日本人として初めて受賞した。また、東京国立近代美術館フィルムセンターでは「映画女優・香川京子」と題して46作品が特集上映された。
(※)五社協定・・・映画会社5社(松竹・東宝・大映・新東宝・東映)が1953年に調印した専属監督・俳優らに関する協定
【日本アカデミー賞受賞歴】第17回「まあだだよ」で最優秀助演女優賞、第2回「翼は心につけて」で助演女優賞ノミネート。第14回「式部物語」で優秀助演女優賞を受賞。
川又昻【撮影】
【映画人生を振り返ってのコメント】
恩師・小津安二郎監督から常に言われた言葉は「自分の絵を作れ」でした。その後「青春残酷物語」(大島渚監督)、「砂の器」(野村芳太郎監督)、「黒い雨」(今村昌平監督)等の撮影監督として仕事のできた映画人生に感謝します。
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【解説】
あくまで妥協を許さぬ撮影技術の名手として、日本映画の質的向上に多大な貢献をされた川又氏は、45年に日本映画学校を卒業後、松竹大船撮影所に入社し、小津安二郎作品のカメラマン厚田雄春に師事。59年「明日の太陽」で33才の若さで撮影監督となる。松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として脚光を浴びた大島渚監督の「青春残酷物語」(60)「太陽の墓場」(60/三浦賞受賞)「日本の夜と霧」(60)などの撮影を手がけ、その大胆な手法が注目を浴びる。以後、野村芳太郎監督とのコンビで「ゼロの焦点」(61)「左ききの狙撃者・東京湾」(62)「拝啓天皇陛下様」(63)「五瓣の椿」(64)「暖流」(66)「白昼堂々」(68)「影の車」(70)「砂の器」(74)「昭和枯れすすき」(75)「八つ墓村」(77)「事件」(78)「鬼畜」(78)「疑惑」(82)「迷走地図」(83)などを担当。フリーになってからは、今村昌平監督「黒い雨」(89)の撮影も高く評価された。近年は撮影助手として携わった「東京物語」(53)「早春」(56)「彼岸花」(58)「秋刀魚の味」(62)など小津安二郎監督作品のデジタル修復作業にも心血を注ぐ。名作を新しい形で蘇らせ、カンヌやベルリン国際映画祭で上映し、世界に日本映画の存在をアピールする一方、その作業を通して後進の指導にもあたる。創作した監督、スタッフ、出演者の意図を可能な限り当時のままに再現しようとする姿勢は、映画製作現場のパイオニアとしての気概が貫かれている。
【日本アカデミー賞受賞歴】第2回「事件」「鬼畜」で最優秀技術賞、第13回「黒い雨」で最優秀撮影賞を受賞。第3回「配達されない三通の手紙」で優秀撮影賞ノミネート。第4回「震える舌」「わるいやつら」、第6回「疑惑」「道頓堀川」で優秀撮影賞受賞。
篠田正浩【監督】
【映画人生を振り返ってのコメント】
1960年代の映画界はテレビの登場で斜陽産業とされていたが、映画が二十世紀を体現する芸術だとする人々は健在でした。今は亡き寺山修司、武満徹、大島渚らから私が学んだことは計り知れません。この度の受賞の光栄も彼らと分かち合いたい。
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【解説】
53年松竹入社。「恋の片道切符」(60)で監督デビュー当時は、松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手のひとりであったが、以後「涙を、獅子のたて髪に」(62)「乾いた花」(64)「暗殺」(64)「美しさと哀しみと」(65)と技巧と美意識、日本的様式美と前衛芸術的実験性とを結びつけた独特の作風で、日本映画界を代表する監督としての地位を確立する。66年にフリーとなり、67年に独立プロダクション表現社を設立。「心中天網島」(69)や「無頼漢」(70)などの先鋭的な作品を放ち、70年代後半以降は「はなれ瞽女おりん」(77)「夜叉ヶ池」(79)「瀬戸内少年野球団」(84)「舞姫」(89)「少年時代」(90)「梟の城」(99)など、大手映画配給会社からの大作も精力的に手がける。86年「鑓の権三」が第36回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。「沈黙 SILENCE」(71)「卑弥呼」(74)「写楽」(95)では、カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出されるなど、国際的にも高く評価される。大作「スパイ・ゾルゲ」(03)を最後に映画監督からの引退を発表するが、早稲田大学や城西国際大学で教鞭を執り、後進の育成に務め、『闇の中の安息』(79)や『私が生きたふたつの「日本」』(03)『路上の義経』(13)などの著書を発表し、中でも『河原者ノススメ 死穢を修羅の記憶』(09)は第38回泉鏡花文学賞を受賞するなど、その旺盛な活動は多岐にわたっている。
【日本アカデミー賞受賞歴】第14回「少年時代」で最優秀監督賞と最優秀作品賞を受賞。第1回「はなれ瞽女おりん」で優秀監督賞、優秀脚本賞ノミネート。第8回「瀬戸内少年野球団」、第19回「写楽」、第23回「梟の城」、第27回「スパイ・ゾルゲ」で優秀監督賞受賞。「写楽」では最優秀編集賞、「スパイ・ゾルゲ」で優秀脚本賞を受賞。
紅谷愃一【録音】
【映画人生を振り返ってのコメント】
1949年、大映京都撮影所録音課に入社。助手時代「羅生門」につく。54年、日活撮影所に移籍、65年技師昇進、神々の深き欲望」(今村昌平監督)、「復活の日」(深作欣二監督)、「南極物語」(蔵原惟繕監督)、「夢」(黒澤明監督)、「鉄道員(ぽっぽや)」(降旗康男監督)等を担当、素晴らしい監督、スタッフ等にめぐり会えた映画人生に深く感謝しています。今回の会長功労賞の受賞大変光栄です。ありがとうございました。
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【解説】
「音作りは想像力とリアリティーの追求」と紅谷氏はその著書『日本映画のサウンドデザイン』の中で語っている。「苦労して録った音、または作った音に執着したり、未練を残さないで、時にはその音を捨てる勇気も大切だ。その結果、思わぬ効果を生むこともある。ミキサーは技術者であるとともにクリエーターでなくてはならない」とも。その成果は録音技師としてのデビュー作「三匹の野良犬」(65)から「育子からの手紙」(10)まで70本を超える担当作品の中に思う存分結実している。49年大映京都撮影所に入社。54年日活に移籍。「愛の渇き」(67)「人間蒸発」(67)「神々の深き欲望」(68)「黒部の太陽」(68)「私が棄てた女」(69)「栄光への5000キロ」(69)などの秀作に貢献し、「太陽を盗んだ男」(79)を経て、80年からフリーに。「復活の日」(80)「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」(81)「楢山節考」(83)「南極物語」(83)「夜叉」(85)「黒い雨」(89)「夢」(90)「八月の狂詩曲」(91)「うなぎ」(97)「鉄道員(ぽっぽや)」(99)「阿弥陀堂だより」(02)など雑踏の音、演奏音、足音や人の声などを見事に調整しつつ、細心かつ大胆に映像に重ねていく手腕は、今村昌平、黒澤明、熊井啓、降旗康男、小泉堯史ら名だたる巨匠たちの作品を支えた。08年より日本映画・テレビ録音協会の理事長を6年間務め、録音界の技術継承とデジタル時代への新たな取り組みに道筋を開き、後進の育成に尽力。10年に旭日小綬章を受章。
【日本アカデミー賞受賞歴】優秀録音賞を17回受賞。うち第4回「復活の日」、第6回「海峡」「セーラー服と機関銃」、第7回「楢山節考」「居酒屋兆治」、第15回「八月の狂詩曲(ラプソディー)」、第23回「鉄道員(ぽっぽや)」の5回で最優秀録音賞を受賞。
舛田利雄【監督】
【映画人生を振り返ってのコメント】
僕のような
潰しの効かない人間が
映画に出会えて、没頭し、報われた。
幸せな人生だ。
感謝。
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【解説】
豪快な作風で日活アクション映画全盛期には「日活の舛田天皇」とも呼ばれたヒットメーカーは、50年新東宝に入社。井上梅次監督について助監督時代を過ごし、54年の日活移籍後も、井上、市川崑、久松静児監督に師事。29才の若さで「心と肉体の旅」(58)で監督デビューする。以後「錆びたナイフ」(58)「赤い波止場」(58)「今日に生きる」(59)「赤いハンカチ」(64)など石原裕次郎主演作品を最も多く(計25作品)演出し、日活アクション映画を牽引する。裕次郎作品以外でも「やくざの詩」(60)「狼の王子」(63)「紅の流れ星」(67)「わが命の唄 艶歌」(68)など数々の秀作を手がけ、映画ファンからの支持を集める。68年に日活退社後はフリーとなり、以後「人間革命」(73)では宗教団体製作映画の限界を越える第一級の娯楽大作を成立させ、戦争大作「トラ・トラ・トラ!」(70)「二百三高地」(80)や「大日本帝国」(82)、アイドル映画「ハイティーン・ブギ」(82)、恋愛映画「片翼だけの天使」(86)など様々なジャンルの作品を手がけた。社会派活劇「社葬」(89)では第44回毎日映画コンクール、第32回ブルーリボン賞、第14回報知映画賞で監督賞を受賞。全82作品のうち、16作品が邦画年間興行ランキングのベストテン入りを果たした。プログラムピクチャーの制約の内にあっても、自身のロマンを表現する演出力と腕力で職人中の職人と呼ばれている。91年牧野省三賞、93年紫綬褒章、99年旭日小綬章を受章。
【日本アカデミー賞受賞歴】第4回「二百三高地」、第13回「社葬」で優秀監督賞を受賞。
山本富士子【俳優】
【映画人生を振り返ってのコメント】
映画を離れて半世紀。この度は思いがけず会長功労賞をいただくことになり大変嬉しく光栄に存じております。十年間の映画生活は言葉では言い表せないほどの凝縮した年月であり、映画は私の芸能生活の原点でもあり女優として人間としてたくさんのことを学ばせていただきました。又、素晴らしい監督、俳優、スタッフの皆様方との出会いがあり、多くの皆様のご支援をいただいて現在がございます。有難うございました。
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【解説】
決して大袈裟でも何でもなく彼女は“日本の美人女優”の代名詞として広く知られてきたが、銀幕の中に刻みこまれたその美貌は、今でもファンを魅了してやまない。幼少時から茶目っ気があり、モダンでお洒落な女学生として青春時代をすごした彼女は、50年第一回ミス日本に選ばれる。その3年後、映画各社争奪戦の末に大映に入社。「近世名勝負物語 花の講道館」(53)で長谷川一夫の相手役としてデビュー。「関の弥太っぺ」(53)や「人肌孔雀」(58)の時代劇や「婦系図 湯島の白梅」(55)「日本橋」(56)などの明治もので着物姿が似合う日本美人の典型としての美しさを見せ、吉村公三郎監督「夜の河」(56)で恋に燃えながら自立した強さを持つヒロインを情感豊かに演じ、その魅力を全面的に開花させた。「白鷺」(58)「美貌に罪あり」(59)「女経」(60)「千姫御殿」(60)「白子屋駒子」(60)「みだれ髪」(61)「私は二歳」(62)「雪之丞変化」(63)など代表作は枚挙にいとまがないが、市川崑や小津安二郎、豊田四郎など錚々たる監督から、映画会社の垣根を越えて出演依頼が相次ぎ、「彼岸花」(58)「暗夜行路」(59)「濹東綺譚」(60)「黒い十人の女」(61)など数々の名作に出演。63年「憂愁平野」への出演を契機にフリーを宣言し、大映を退社。その後、活躍の場をテレビ、舞台へと移したが10年間の映画出演作は100本を超える。01年に紫綬褒章を受章。