山田洋次「幸福の黄色いハンカチ」「男はつらいよシリーズ」
“慎ましやかな愛を語らせたら右に出る者はいない”と、言われる山田洋次監督。「幸福の黄色いハンカチ」のテーマについて、「青年が、このシラケの時という中で、無意味に、無感動に生きていくことは、不幸なことである。そんな若者達にとって、この作品が、愛する意味や、人生の価値を考える契機となればよいと願っている」と語る。「男はつらいよ」シリーズは、数えて20本目を迎えたが、氏は、絶えず最新作を撮る時は、第1作目を撮るような新鮮な気持ちで取り組んでいるという。“1度しかない人生を大切にし、長い年月をかけて築きあげてきた人類社会を少しでもよくして、次の世代に伝えることは、人間の使命である”氏のこの精神は、映画を製作する上での基軸となっているといえる。今回の作品にも、この精神がうかがわれる。監督をとりまくスタッフのチームワークのよさが、作品に投影されているのは見逃せない。(昭和 6年)
市川崑「悪魔の手毬唄」「獄門島」
30年のキャリアを持つベテラン映画監督。「こころ」「ビルマの竪琴」で日本を代表する映画作家の一人となる。「炎上」「野火」「破戒」などシリアスなドラマの分野で、優れた業績を残した。「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」「獄門島」と、続けて横溝正史の作品を映画化。今回は「悪魔の手毬唄」「獄門島」で優秀賞受賞。同シリーズでモジャモジャ頭の名探偵金田一耕助はすっかり人気者となった。1作目の「犬神家の一族」がヒット映画だけに次に続く作品は苦心したとのこと。派手さがない「悪魔の手毬唄」では演出にパンチをきかせラブロマンスの部分も強調。「獄門島」では原作と違う犯人を設定し“映画では誰が犯人か”と話題をふりまいた。氏自身はこの2作について「観客をどうやってフィクションの世界に引き込むか、怖さと現代性のバランスの配分をどうするかということに一番気を使った」と語る。自ら脚本名には“久里子亭”(クリスティ)と名のる程の推理小説のファンでもある。(大正 4年)
篠田正浩「はなれ瞽女おりん」
日本ヌーヴェルヴァーグの旗手の一人として、独立プロ「表現社」を作ってもう10年が経っている。独立後第1回の作品「あかね雲」の原作者が水上勉氏。 10年を経て、再び水上氏の作品「はなれ瞽女おりん」の映画化が奇妙な因縁を感じさせる。大正時代の風景を探すのに、全国一都九県、80数ヵ所をまわり、 3万キロにおよぶ撮影。「ロケハンに2年、脚本に1年、製作に1年を費やしたため、日本の風景が日々にその姿をかえていくことに、恐ろしさを感じた」という。今にも滅びてしまいそうな瞽女さんの世界を借りて、やがて消えてゆくひとつの日本の伝統文化を追い続ける。破壊されてゆく日本の風景とともに、滅亡にむけて歩みを続ける文化への危惧感が、この作品の奥に秘められている。独立プロで映画を製作することの困難な現状の中、「心中天網島」「沈黙」等の映画史に残る名作を生みだした監督の執念のようなものが、この作品のすみずみにまで染みついている。(昭和 6年)
新藤兼人「竹山ひとり旅」
シナリオライターとして所属していた松竹大船撮影所を退社。近代映画協会を創立し「愛妻物語」で監督となる。以後、社会的リアリズムで人間像を描くことに特長がある。“ドラマというのは人間のドキュメンタリーであり、ドキュメンタリーは生きもののドラマであるような気がする、映像ではこのふたつは同じもの”…… と独自の視点をもつ氏は、「竹山ひとり旅」について、「今回はドキュメンタリーとドラマを融合させるという点に力をいれた。つまり、ドラマとドキュメンタリーという、次元の異なったものを同居させる可能性を映像で具体的に表現しようと実験してみた」と語る。つぎつぎと画面に展開される、絵のようにとらえた東北の自然美。津軽という素材を単なるバックグラウンドではなく、竹山という人間と切りはなせない風土として見たその主張が、ドラマチックな構成の中でドキュメンタリーとしての見どころをも作り上げている。(明治45年)
森谷司郎「八甲田山」
昭和40年「ゼロファイター大空戦」でデビュー。その後、若者の自意識を濃厚ににじませた、単なる風俗映画の域にとどまらない青春映画で鮮やかな演出技術をみせる。今回の「八甲田山」は、「日本沈没」以来の沈黙を破っての登場。この作品は、八甲田山に挑戦した青森第5連隊と弘前第31連隊を中心に、人間と人間との愛……生れてから死ぬまでの旅の中で人と人とのふれあい、めぐり逢いの運命を描く。氏はこの映画で「人間の大きな魂の遍歴の号泣、その強さを悲しさにまで迫りたい」と語る。撮影中、吹雪の量が少ないため、零下10度の寒風の中で4時間も待ったというエピソードからも、この作品に賭ける気迫がうかがわれる。吹雪、凍死、遭難、死の彷徨というイメージの作品に、大きな救いとして女優陣を効果的に使っているところも見逃せない。繊細さとダイナミックな面と両方兼ねそなえた「八甲田山」は、氏の才能が余すところなく発揮された映画であるといる。(昭和 6年)